2007年02月27日

運営スタッフのひとり言『中国古典に学ぶ』〜特別寄稿〜

【中国古典に学ぶ】

『人の予(よ)楽(らく)に於ける、心これを説(よろこ)ぶ。故(ゆえ)に遅遅(ちち)として遂に耽恋(たんれん)して已(や)む能(あた)わざるに至るなり』

「予楽」とは楽しみごと。したがってこの文章は、「人間にとっての楽しみごとは、心がそれを欲しているのである。だから、いつのまにかのめり込んで、やめる事が出来なくなってしまう。」といった意味になる。

それで思うのだが、仕事だけの人生になったのでは、もうひとつ味気ない。仕事とは別に、自分なりの楽しみごとがあって良い。なんに楽しみを見出すかは人それぞれである。それをしているとき「ああ、楽しいなあ」と思えるのが、自分にいちばん合った楽しみである。そんな楽しみを、何でもいいから一つくらいは持ちたいところである。
 
そんな一時が持てれば、仕事のストレスを解消できて、明日の仕事に取り組む活力もわいてくるであろう。また、それだけ人生の幅を広げることもできるかもしれない。ただし、楽しみごとは楽しいからといってのめり込むと、どうしても仕事がおろそかになる。それまでいくと明らかに行き過ぎである。とくに現役のときは、あくまでも仕事を優先させて取り組みたい。

(中国文学者 守屋 洋氏文章から)

「我々大人だけでなく、子供達にも考え方を踏み違えないように、学校の本分をわきまえさせつつ、サッカーに打ち込むことの大切さを教えていきたいものである」


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『今の人は過(あやま)ちあれども人の規(ただす)すを喜ばず。疾(やまい)を護(まも)りて医(い)を忌(い)むが如(ごと)し。寧(むし)ろその身を滅(ほろ)ぼせども悟(さと)るなきなり』

「近ごろの人は、過ちを犯しても人から指摘されることを喜ばない。それはあたかも病気になりながら医者にかかろうとしないようなもの、死に至るまでその愚かさに気づかない」というのである。人間であるからには、誰でも過ちを犯す。あとで「しまった」と思うことのなんと多いことか。過ちを犯しても、自分で気づいて改めれば、それでよいのである。

たぶん、多くの人はそうしているにちがいない。問題は、自分では気づかない場合である。そんなとき、人から過ちを指摘されても、喜んで耳を傾ける気になれないのが一般ではないか。いや、それどころか、かえって反発したり、居直ったりして、拒絶反応を示す人もいる。これは過ちを改める機会を自分で放棄しているようなものである。

これをしていたのでは、せっかく好意をもって過ちを指摘してくれる人も、二の足を踏むようになる。もったいないではないか。これもまた修行のうちと心得て、忠告には素直に耳を傾けたい。

(中国文学者 守屋 洋氏文章から)

「このことは、耳に痛い言葉である。私自身、年齢を重ねた今でも、つい人の忠告を素直に聞けない時がある。反省・反省・反省」

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〜特別寄稿〜「酔いどれレッドの独り言」